教育のオンライン化の限界。徳育・体育の重要性

雑記

この記事を書き始めたのは2020年5月10日。新型コロナウイルス(COVID-19)の影響で緊急事態宣言が延長され、休校やリモートワークが続く中、なんとなーく世の中に「そろそろ自粛しなくてもよくね?」という雰囲気が漂い始めているところです。

そんな中、先月からずっと「リモートで勉強できる環境が構築されつつあるし、学校なんていらなくなるのでは」という議論をちょこちょこ耳にします。私は決して教育の専門家ではありませんし、そもそも教育学をしっかり学んだこともありませんが、今日はこれについて、私なりの見解を書いてみたいと思います。

コロナで盛り上がった「学校はいらない」論

コロナが終わったあと、学校教育は大きく変わる!

もう、今までの学校はいらない!

多くの先生が職を失う!

などなど….こんな主張を、先月あたりから耳にすることがあります。

結論、私はこれらの主張には懐疑的です。コロナ後も、そんなに学校は変わらないと思っています。

「学校いらない派」の主張で多くみられるのは、

  • リモートで授業はできる。事実、いま世界中でリモートの授業が行われている
  • だから、学校の授業は全部リモートで、映像を全国一括(あるいは都道府県単位)で配信すればよい
  • 教え方がめちゃくちゃうまい、一部の先生が授業をすればいいので、他のほとんどの先生はいらなくなる

といったものです。確かに、リモート授業は普及していますし、スタディサプリのような動画をつかった塾・予備校は増えています。勉強系Youtuberさんもたくさんいらっしゃいます。そしてこれらは、ものすごく有用です。

学校=知育の場、ではない。徳育と体育の重要性を忘れてはいけない。

ハーバート・スペンサーの教育論と教育基本法

ここでもう一度、学校の意味について考えたいと思います。日本の近代教育に大きな影響を与えたものとして、イギリスの哲学者・社会学者ハーバート・スペンサー(HerbertSpencer、1820-1903)の教育論があります。スペンサーは、「知育、徳育、体育」の3つの育を唱えました。

  • 知育とは、知識を豊かにする教育(=いわゆる”勉強”)
  • 徳育とは、道徳心やコミュニケーションについての教育
  • 体育とは、健全なからだをつくるための教育

これら3育は、未だ教育の基本となっています。

また、教育基本法には、

教育基本法
(教育の目標)
 第二条  教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。 

 一  幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。

 二  個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。

 三  正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

 四  生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。

 五  伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

とあります。すなわち、学校=勉強(知育)の場、と考えてはいけないのです。

私が学校で学んだのは知育ではなく徳育と体育だった

私の小中学生時代を思い返せば、学校で学んだ勉強(知育)は、ほとんど役立っていません。学校の授業のレベルがとても低かったため、ほぼすべて、自習と塾で学びました。

では、学校が無駄だったのかと言えば、決してそんなことはありません。精神的に未熟だった私を鍛えてくれたのは学校の先生ですし、友達とのコミュニケーションや、運動する機会を与えてくれたのも学校です。これらは、決して自分1人や、家庭内で学べることではないのです。

知育・徳育・体育のオンライン化の限界

現時点でオンライン化されているのは一部の知育のみ

オンラインで代替できる教育は、一部の知育のみです。動画をみて、友達とのコミュニケーションを学べるのでしょうか?跳び箱を飛べるようになるのでしょうか?芸術作品をつくったり、名作と呼ばれる作品に触れる機会はあたえられるのでしょうか?

コミュニケーションにせよ、跳び箱にせよ、美術にせよ、すべて「実際にやってみる」ということに意味があります。そして、学校はこれらを提供してくれる素晴らしいシステムなのです。学校がなければ、ほとんどの人は跳び箱を跳ぶことなく一生を終えるでしょう(ま、それで何か不都合があるのかどうかは別途議論しなければなりませんが…)。

知育だって、全てオンライン化することはできない

知育ですら、全てをオンライン化することは難しいと考えます。物理の実験を自宅で行うのは不可能です。生活、美術、家庭科、技術、といった科目についても、オンラインで完全に代替することは困難だと思われます(こういった科目には徳育や体育の要素も含んでいるようにも思えます)。

こう考えると、オンラインで代替できる教育というのは本当にごくわずかです。予備校や塾で提供されている教育のみ、オンラインで代替できるといっても過言ではありません。「予備校がほとんどつぶれてオンライン化される」というのならまだ現実味がありますが、学校がなくなることはありえないと思います。

オンライン化すべき教育はあるか

オンライン化できる部分は積極的に推進し、効率を高めるべき

色々申し上げましたが、オンライン化できる部分があるのであれば、積極的に実施した方が良いと思います。学校の先生は毎日夜遅くまで大変な激務をされているので、主要5科目の一部をオンライン化するだけで、かなり負担減になるでしょう。

また、徳育や体育についても、学校以外で学べる場を広く用意できればと理想だと思います。「習い事」という選択肢はありますが、お金もかかりますし、「勝負」が重視される側面もありますから、万人にとっての教育システムとしては完璧ではありません。そう考えますと、学校は徳育や体育を重視し、知育をオンライン化していくのは、かなり良いバランスな気はします。

学校になじめない子供たちの受け皿として、オンライン教育は有効

また、学校の徳育や体育は完璧ではありません。

学校になじめず不登校になってしまったり、いじめを受けて辛い思いをしている子供たちはたくさんいます。心無い教師に傷つけられてしまう子供たちもいます。

その場合に無理して学校に行く必要は全くないと思いますし、そういった子供たちの受け皿としてオンライン教育はとても有効に活用できると思います。